『本物の舞台芸術体験事業』追加公演も無事終わり、あとむ全員元気に帰ってきました。
「子どもたちに『本物』を体験させたい」と思う先生の気持ち。全身で舞台を感じ一緒に遊ぶ子どもたちの姿に、
元気をいっぱいもらった旅でした。

旅の途中や、旅を終えたあとむメンバーが感じたことを書き綴ってみました。

Harumitsu Oda

織田 晴光
旅も終わり、季節は春の香りに満ちてきました。
子どもたちの笑顔や先生方の喜びの声を聞き、我々の心も春の訪れと共に温かです。
 さて、私たちが今回上演した『あとむの時間はアンデルセン』〈遊びバージョン〉
アニメイムで子どもたちと事前にワークショップをやりました。新聞紙で棒を作り、簡単な遊びや形造りをしました。集団で何かを創る事が楽しいと感じてもらえたら嬉しいのですが…。面白かった、楽しかったという感想は聞いたものの、実感として私にはないのです。お芝居を観た後の感想は本当に「楽しかった!」というのが体全体から表現されているからよく伝わってきてます。今後アニメイム遊びについてはいろいろと新しいアイデアを考えてみたいと思っています。
ところで、いよいよアンデルセンの故国デンマークでの公演が決まりました。そのためにはいろいろな準備をしなければいけません。作品構成、人員、道具類などたくさん考える事があります。これを機に新しいバージョンで作品ができるかもしれません。最小限の道具でコーラスとアニメイムで見せるアンデルセンの世界。楽しみです。木々や花の蕾と共に、期待も胸膨らむ今回の旅でした。

Kyoko Kozima   

小嶋 京子     
            
 


朝 起きて窓を開けたら
外のニオイが ちがいます
しめしめ春がくるぞというウキウキ気分
風にのり 花の香りは いい感じ
花のつぼみや新芽がぷっくり
春のにぎわい はじまりです。

パレットの上でチューブをしぼり
自分の好きな色を作るのも楽しいけれど
花のつくり、葉っぱの型、木々の枝ぶり
自然界のすばらしい色、色、色

きれいだなぁすてきだなあと
しあわせ気分を楽しみます。
せいいっぱい元気に楽しく生きたいと
改めて思う 今日このごろです。

2005年・はる 

Junko Mikuni

 三國 純子

『忘れてた私らしい生き方 〔小さな感動→大きな幸せ〕』

子どもの頃から、道を歩き、地面や草を見たり、同じ道でも季節によって色や景色が違ったり、匂いや空気の変化が楽しみだった。
暖かくなるといつもの道をアリが歩きだす。アリが歩いていると、そのスタートのエサ場と、そのゴールのアリの巣を探した。アリにも色々いて、全員がその列に参加していなかったりすると、アリの都合を色々想像できて、おもしろかった。
雨あがりに虹がかかると、ホントに七色あるのか、ずっと見ていた。虹を見ているといつもより、空気が甘いような気がした。
落ち葉の掃除。集めた木の葉の中を歩くと、葉っぱがシャクシャク音を立てると、足の裏が気持ちよかった。
なんだか忙しいと、つい自分らしい生き方を忘れてしまう。
ついつい、人に何かしてもらったり、プレゼントもらったり、目に見えることで喜んでしまう。でも、お金や時間をかけて誰かに何かをしてもらわなくても、私たちの日常生活の中にも、些細なことだけれど感動があふれている。
いつもの道を歩いて、季節によって違う変化を楽しめたり。とかね。
日々の小さなことでも感動できるような、感動に敏感な人でありたいなと思っている。




  Sachie Kuroki

   黒木 幸枝

遊びの適齢期

あとむに入った時から常に身近に聞く言葉。「遊び、遊ぶ、遊べ!、遊ぼう!」今まで「遊びってだいたいこういうものだろう」と解った気になっていたのですが、真剣に考えると何だか解らない「遊び」遊びって何だろう。遊ぶって一体どういう事だろう。
考えるうちに、子供の頃、一番熱中した遊びを思い出しました。それは、『落し穴』砂場に穴を掘る→穴を隠す→誰かが落ちる→喜ぶ。という、単純なものなのですが、これが流行りに流行り、「落し穴禁止令」が出るほどの空前の大ヒットとなりました。
 確か、小学校3年生の頃だったと思います。深さはせいぜい20センチくらいのものだったのですが、落ちた友達がそれはもう見事なまでに面白い落ち方をしてくれた時など、痛快!落ちた本人まで一緒にげらげら笑い転げました。 
しかしある日曜日、私たちはとんでもない落し穴を作り上げてしまいました。朝から堀り続け、昼ご飯を食べたらまたひたすら掘り、私たちの身長を越える穴(150センチぐらいでしょうか)が出来ました。興奮した私たちは罠を仕掛けようと言い合い、穴の底には水を入れたバケツ、側面には木の枝で作った刺・・・拾ってきた犬のふんまで入れておくという手の込みようでした。制作中はみんな目をらんらんとさせ、しかも興奮のあまり息はぜぇぜぇと荒い、ちょっと異様な状態。これまでにない集中力と一体感で作り上げた落し穴に蓋をし、後は誰かが落ちるのを待つばかり・・・という所でした。
しかし、その落し穴に誰かが落ちる事を考えると恐くなり、公園に来る人来る人に「あそこは落し穴があるから行ってはだめだよ」と言い続け、帰りの鐘が鳴る6時まで、誰も落ちないように砂場を監視し続けてしまいました。恐らく、誰か(特に小さい子供)が落ちてしまうと、遊びでは済まなくなることをみんな感じていたのでしょう。結局誰も落ちることなく、鐘が鳴ると落し穴を埋め(それがルールでした)私たちは家路につきました。  そして、次の日から落し穴で遊ぶことはありませんでした。
 今思うと、恐らく私たちは後先考えない「こども」の心と先を予想する「おとな」の心の丁度中間の所で遊んでいたのだと思います。夢中になれる力と人を思いやる気持ち。遊びの適齢期というのはやはりあるのだな、と子供時代を振り返って思いました。結婚適齢期があやふやになった現代、遊びの適齢期も子どものもの、ではおさまらなくなる日が来ると、世の中もっと楽しくなるな。と思います。